『停電すると、すぐに呼吸ができなくなる』というイメージを人工呼吸器に対してお持ちの方も居られるかもしれません。
ドラマのワンシーンでも、人工呼吸器のスイッチを切って殺害するようなことがあったかもしれません。
人工呼吸器という装置のこと、生理学や解剖学といった人体のこと、両面から見て『呼吸』を考えてみると、理解しやすくなると思います。
- 息止め
- 呼吸停止直後は酸素残存
- 人工呼吸器停止後も酸素運搬
- 急性期と慢性期
- 連続使用と間欠使用
- 人工呼吸と酸素加
- 人工呼吸の種類
- 用手換気
- 停電時も用手換気
- 機械式も簡単には止まらない
- 内蔵バッテリに依存しない
- 精緻に予想
- 精緻性が備蓄力に影響
- 医療機関はn:x
- 何があっても、止めない
- 停電後の呼吸停止
- おわりに
息止め
水泳の息継ぎの間隔では、息を吐くことはあっても吸う事はありません。吸った時点で息継ぎです。
歌を歌ったり、人前でスピーチする場合も、普段の呼吸リズムとは異なる場合があります。
健常者として、息が止まるようなことは滅多にあるものでは無いですが、自らの意思で息を止めることはできると思います。
下の動画は、筆者が自らの意思で息を止めてみた動画です。室内の空気を吸える環境ですし、傍らには酸素ボンベや人工呼吸器も用意されています。
上記動画では、息止めから1分15秒あたりで警報音が鳴動します。これは『酸素飽和度』が95%まで下がったため下限アラームが鳴動しています。
簡単に言うと血液中の酸素量が、息を止める前より減ったことを知らせています。
(血中酸素量、酸素分圧、酸素飽和度などは厳密には意味が異なりますが、ここでは簡単に『酸素量』と表現)
筆者は1分50秒で息止めを終えましたが、2分を超えても大丈夫という人も居られます。
呼吸停止直後は酸素残存
呼吸が停止してしまった直後に亡くなるということはありません。
1分間に10回の呼吸をしているとすれば、呼吸のサイクルは6秒です。息を吸う時間が1秒間であれば、5秒間は息を吐いているか、何もしていない時間です。すなわち、5秒間は息をしないというのが常態的です。
1分に10回で換算すると1時間に600回、1日に14,400回、1年に525万6千回の呼吸をしていて、毎回5秒は息を吸わない状態なので、5秒の息止めで気を失うことはないと思います。
血液が肺を通る際に二酸化炭素(CO2)が出て行き、酸素(O2)が取り込まれます(肺循環)。この肺循環を経た血液は心臓から身体に送り出されます。
酸素を豊富に含んだ血液は動脈を通って臓器や組織へ送られ、毛細血管で酸素が取られ、二酸化炭素が返され、静脈を経て心臓に戻ってきます(体循環)。
この動脈⇒毛細血管⇒静脈という流れを1周するには1分程かかります。
呼吸が停止しても、心臓が動いていれば、酸素を豊富に含んだ血液が数十秒間はガス運搬の仕事をします。酸素量が少ない血液が臓器や組織に車で数十秒のタイムラグがあります。
したがって、呼吸停止から数十秒は身体に異変が起こらないことになります。
人工呼吸器停止後も酸素運搬
健常者の肺循環とは多少異なりますが、人工呼吸器を装着している患者も、自らの肺を使って、自らの血液に酸素を渡しています。
心臓が1拍する毎に血管内を血液が移動し、肺で酸素が豊富になった血液が順次体内を巡っていくことになります。
人工呼吸器が停止した時点から、新たな酸素加は行われないとしても、直前に渡された酸素が蒸発する訳ではないので、心拍に従って体循環されて行きます。
したがって、人工呼吸器の停止から数十秒は身体に異変が起こらないことになります。
急性期と慢性期
人工呼吸器を使っている患者の病態は大きく急性期と慢性期に分けられます。
インフルエンザにかかり、そこから肺炎を患って人工呼吸器を装着したというケースは急性期です。病態は刻々と変化し得るため、人工呼吸器の設定も頻繁に変更される可能性があります。
病態は安定し、5年以上も人工呼吸器を使っているが、設定を変更するようなことは滅多にないという患者は、おそらく慢性期です。
急性期の患者が病院外で人工呼吸器を使う可能性は低く、在宅医療などで人工呼吸器を使っている患者の多くが慢性期です。
大きなくくりで言う『人工呼吸器』という装置は、急性期と慢性期で共通しますが、細かな点で言えば違いがあるとも言えます。
急性期は微調整が必要な場合がありますが、慢性期ではさほど微調整は要りません。
急性期の患者は数日から数週間で人工呼吸器から離脱するため、急性期で用いられる人工呼吸器は年間で何十人も患者が変わります。患者の体格や症状で多様な設定を求められます。
慢性期の場合は同じ患者に、同じ装置が使われ続ける期間が半年や1年になりますので、その患者にマッチする機種さえあれば多機能である必要はありません。
連続使用と間欠使用
人工呼吸療法で『間欠的』というとIPPVやNPPVの和訳時に出て来る用語なので、患者さんへどのようにしてガスを送り込むかという話題になります。
- 間欠的陽圧換気: intermittent positive pressure ventilation, IPPV
- 非侵襲的陽圧換気: non invasive positive pressure ventilation, NPPV
ここでは、時間軸を『1日』『日内』といった長い軸で見た場合の『間欠的』として話を進めます。間欠的の言い方を変えると『短期的』『時限的』『スポット』などでも良いかもしれません。
人工呼吸器を用いた人工呼吸療法には、常時人工呼吸器の助けが必要な人と、助けて欲しい時期だけ利用すれば良いという人に分けられます。
常時の使用は必要ないという人の中にも、さらに必要度で差があります。
睡眠時無呼吸症候群の患者が使うシーパップ(CPAP: Continuous Positive Airway Pressure)という装置は、睡眠中に舌根が沈下して気道が狭くなるような、一時的な換気障害、肺は正常なので気道の問題を解決するような仕事を担います。
病名の通り睡眠時にだけ起こる無呼吸です。起きている間は普通に呼吸をしているので、1日の中の就寝に係る6~8時間程度だけ使う、残る十数時間はCPAPを必要としていません。
医療的ケア児の在宅人工呼吸療法でも、常時人工呼吸器が必要な患者ばかりではなく、ある時期だけ必要という患者も少なからず居ります。
人工呼吸と酸素加
いわゆる『酸素マスク』をしている状態は人工呼吸ではなく、自発呼吸です。自らの呼吸器を使って呼吸(換気)はしますが、その努力だけでは身体が求める酸素量に至らないために酸素濃度を高めます。
room airの20.9%の酸素ではなく、40%の酸素であれば、同じ量を吸い込んだとしても、肺の中に在る酸素濃度、酸素分子の絶対量は多くなります。
酸素加は患者が装着するマスク、供給源からマスクまでのチューブ、酸素供給源となる酸素ボンベや酸素濃縮器があれば成立します。酸素ボンベを用いる場合には電源は不要です。
酸素加だけを見れば、電源を使わない方法があるので停電対策は『酸素ボンベの備蓄』で完了しても問題ありません。
人が息を吸う時、横隔膜や肋骨などの動きで肺を膨らまし、肺が膨らむことで空気(ガス)が流入し、ガスが取り込まれます。袋状のものを外から引っ張って膨らませるので、袋の内側は陰圧、マイナスなので空気が入ってきます。
人工呼吸器は真逆です。外にあるガスを肺に押し込むことで、肺が膨らみます。正しくは陽圧換気の場合の人工呼吸の話ではありますが、よく見かける人工呼吸は陽圧式です。
口元の酸素濃度を高くするだけの酸素加は、その酸素ガスを患者が陰圧で引き込んでいるので、陽圧式人工呼吸とは違うと言えます。
人工呼吸の種類
人工呼吸を簡単に分けると、機械が自動で行う人工呼吸、人間が手を使って行う人工呼吸、人間の口から口へと行う人工呼吸があります。
口から口への人工呼吸は、病院前救護で行われるのみで、院内で実施される可能性は極めて低いです。
病院前救護で、なぜ口から口への人工呼吸という行為が必要になるのかと言えば、人命救助です。
他人と口を合わせ、他人の息が吹き込まれることのダメージよりも、生命を落とさないことが優先されるためです。
下図は『カーラー曲線』と呼ばれるもので、横軸が時間、縦軸が死亡率です。
心臓が停止してしまった場合、救命率は1分で10%下がるとも言われますが、急いで胸骨圧迫や除細動(AED)をして心拍の再開を試みます。
呼吸停止の場合も5分を過ぎると急激に救命率が低下し、例え救命できたとしても後遺障害が残る可能性があります。
人工呼吸の効率で言えば、口から口は最低です。何もしないよりは効果がありますが、口から吐き出される息の酸素濃度は、空気のそれより薄いと考えれば、効率の悪さが理解できるかなと思います。
しかしながら、卒倒現場に医療機器があるとは思えませんので、口から口への人工呼吸が有効な手段となります。
用手換気
機械式の人工呼吸器は常用されるものですが、非常用のリソースとして『用手換気』という方法があります。
『換気』(ventilation)とは、簡単に言うと呼吸のことです。人工呼吸器は英語で『ventilator』(直訳は換気装置)と呼ばれています。
下図は用手換気を行うためのデバイスで、や『Bag Valve Mask』(BVM)という物です。商品名を使ってアンビュバッグ(AMBU Bag)と呼ぶ人も居ます。
青いラグビーボール状の部分がガス(空気や酸素)をためる気室であり、この部分を圧迫することで、圧迫された容積分のガスを患者に送り込みます。
圧迫を解除すると元の形状に戻るので、気室の容積は既定量になります。
病院では非常事態でなくとも用手換気が行われます。
呼吸状態が悪い患者が救急搬送されてきた場合など、機械式の人工呼吸器が装着される以前に用手換気が行われます。
機械式の人工呼吸器のメンテナンス時や、CTなどの検査に搬送される間だけ用手換気するなど、スポット的な用法で、比較的頻繁に用いられます。
停電時も用手換気
この記事では『停電すると、すぐに呼吸ができなくなる』をテーマに情報提供していますので、停電時の用手換気(BVM)について説明します。
もちろん、停電時にも用手換気は有用な手段です。
人がBVMの圧迫と解除を繰り返している限り、人工呼吸が継続されます。
筆者は用手換気の際に、メトロノームを同時使用する方法を推奨しています。
医学的なエビデンスはありませんが、工学的な自験例があります。
6秒間を1サイクルとして、5秒間は待機、1秒間だけガスを送り込むサイクルが適正であるとします。
慢性期の患者で、このサイクルであれば異常が出る事はないということが長期の療養生活でわかっていたとします。
この5秒と1秒のタイミングは、どのようにして合わせると良いでしょうか。
自らの勘を頼りにする方法、時計を見ながら実施する方法、メトロノームの音を聴いて実施する方法、この3つを比較しました。
10分間の操作でも、有意差が出ました。メトロノームを使う方法が、他に比べて優れていました。
筆者は災害対策のコンサルタントなので、まことしやかなことを信じて患者が生命を落とすようなことが無いように、独自の実験を重ねています。
機械式も簡単には止まらない
人工呼吸器の代替手段を考えることは非常に重要ですが、そこに及ばないように人工呼吸器自体にも予備機能があります。
内蔵バッテリが搭載されている機種は、この20年間で100%に近づいたので、概ね停電後の一次対応は内蔵バッテリが動作すると思います。
アラーム機能も備わっていますので、機器が停止する前に、異常が知らされます。
ただし、状況のイメージは下図のような感じです。
例えばICUでは患者1人に10~20台の医療機器が使われ、いずれも2~3時間でバッテリ切れになるため、ある時間帯になるとバッテリに関するアラームだらけになり、警告音は埋もれてしまう可能性があります。
内蔵バッテリに依存しない
病院の場合は、非常電源が備え付けられている場合が多いので、街が停電していても院内の自家発電装置や蓄電池からの供給を受けて電源を確保することができます。
在宅医療の場合は、自前のバックアップ電源が必要になります。
手っ取り早い考え方は、発電機です。燃料さえあれば何時間でも電力を供給し続けられます。
関連記事のリンクを張っておきます。
精緻に予想
医療機器の高度化と電化は進み、電力と医療の関係性を強めました。
一方で医療機器は医療従事者が、医療設備は建設系エンジニアが扱っており、棲む世界が全く違う者による管理が弊害を生み出しています。
『発電機は72時間稼働します』と設備側から言われ、それに合わせた医療を考えるというケースを多く見てきましたが、元々は『7日間の停電に対応させたい』というのが医療側の考えであったかもしれません。
では、7日間の停電に対応できるのかというと、それを精緻に検討した事例は見当たりません。
そこで筆者らは、保有する医療機器とバックアップ電源の組合せで何分間動作できるのかシミュレーションしました。
最初は方眼紙に書き込んでいましたが、何パターンも作ろうとすると数日かかってしまいます。
そこで、自動的にシミュレーションできるシステムを開発しました。
この成果は学会で発表し、優秀演題賞を受賞しました。学術活動のために開発した訳ではないので、社会実装を進めています。
精緻性が備蓄力に影響
上述の精緻なシミュレーションをすることで、患家が目標を明確化します。
最初は72時間分の燃料備蓄で安心していても、患者の安全を考えると倍は欲しいな、という安心⇒安全に考えが切り替わります。
燃料が無くなってしまったときのために、近所に応援要請できるように市役所に相談したり、用手換気とメトロノームを使った訓練を家族で実施したりと、新たな行動に出る人も居ます。
医療機関はn:x
在宅医療の多くは、患者は1人です。その患者を支える人は、1人に集中することができます。
医療機関では、患者数は入院病床数以上にはならないと考えることができますが、人工呼吸器を使っている患者数は変動します。
看護師10人に対して人工呼吸器装着患者が5人であれば、停電時の用手換気も交代しながら対応できますが、患者側が20人となると手が足りません。
医療機関の都合で人工呼吸器装着患者を増やし過ぎないようにする考えがあったとしても、病状が急変することもありますし、救急搬送が多い日は一時的に人工呼吸器装着患者が増えることもあります。
患者数は未知数のため、停電対策は固定的な考えでは難しくなります。
何があっても、止めない
医療は人と人の関わりで成り立つサービスであるため、流動的な部分が多くあり、提供者側の理屈だけで決められることは少ないです。
医療従事者は日々、難しい判断を繰り返しながら最適な診療を継続しています。ベースとして臨機応変が身に付き、個別対応することに慣れています。
それは、停電が起きた時も同じです。
何をしなければならないか、人工呼吸器装着患者であれば人工呼吸を続けること、患者の酸素加を止めないことはすぐに思いつきます。
いま何ができるのか、総合的に判断して最適な方法を選択します。
よっぽどのことがあっても患者の生命を守る、人工呼吸は止めない、これが基本的な考え方です。
停電後の呼吸停止
用手換気が最終手段であるとすれば、それが出来なくなる状況は、医療従事者が力尽きたときかもしれません。
残念ながら患者生命は守られないかもしれませんが、医療従事者の生命も危うい状況だと思います。
そう考えると、停電後に呼吸が停止してしまうという状況は、なかなか想像しづらいです。
誰の生命をも落とさないための方策が求められ、実装されています。
おわりに
停電が発生すると人工呼吸器が停止して、患者の呼吸が停止して、お亡くなりになるというストーリーは簡単には成り立ちません。そんな単純な転帰ではありません。
まず、人間は強靭です。患者は生きようとします。
そして、医療従事者の思考や行動も強靭です。患者を生かそうと努力を惜しみません。
難しい事を考えなくても患者生命を危機から遠ざけるためには、平時からの備えが必要です。ハード面の備えだけでなく、人間的な部分も医療には求められます。
誰かが用手換気で患者に付きっ切りになるとき、その人の食事やトイレはどうするのか、そう考えると素人でもお手伝いできることがあるかもしれません。
相手を知るためには、相手に興味を持つことが重要です。
この記事を読もうと思った方々、ぜひ人工呼吸と停電について関心を持ち、多少の知識を持って頂ければと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。